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神社の由緒・歴史

世界の恒久平和こそ、わたしたちの唯一の願いです。
山王神社は、長崎県長崎市坂本に鎮座し、村社であった山王神社(日吉神社)と県社の皇大神宮が合併(皇大神宮側に合祀)して創祀された神社です。また、浦上皇大神宮とも称され、また山王日吉神社とも称します。
第二次世界大戦の終焉を迎える直前の昭和20年8月9日午前11時02分、長崎市への原子爆弾投下によって鎮座地が爆心地から約800メートルの地点に位置していた為に被爆し、その跡を残す二の鳥居(片足鳥居)や、原爆の熱線と爆風により、死に絶える寸前となりながらも豊かな緑を取り戻した樹齢500~600年の大楠(被爆クスノキ)が、現在では当神社の象徴となり、多くの皆さまに愛されております。
由緒・歴史
山王權現社創立寛永15年(1638)松平伊豆守信網が、島原の乱より帰途、此の地通過の際、景勝が近江叡山の下に似て又地名も坂本と同じ事から、ここに山王槿現を観請してはとの事で、 時の長崎代官末次平蔵茂房が長崎奉行と計り、此の地(現在地でなくも近くと思われる。又一説によれば岡町付近の説あり)に廟宇を建て、寺町延命寺開墓龍宣を兼職とす。
御祭神大國主命 大山昨命 大年命を主祭神として奉祀した。
宮祠移転前記土地が境墓と近いため承應元年(1652)延命寺二代にかく尊學が現在地に廟宇を移した。
被 害
享保2年(1802)座舗庫裡焼失。
文政11年(1828)台風により庫裡崩壊、境内杉木大半折損す。
再 建
天保8年(1837)門前に鳥居奉納
弘化2年(1845)拜殿
嘉永2年(1849)社殿再建
日吉神社と改稱創立当時より、神佛混淆であったが、明治維新に神社となり、明治元年(1868)日吉神社と改稱せられ、村社となる。
浦上皇大神宮創立明治元年、長崎裁判所總督就任した澤宣嘉、浦上吉利支丹事件等により、北部長崎市民に國体觀念を養う必要を感じ、 豊後町の島谷安昌氏の自己所有地を献奉し、翌2年3月社殿竣工(現在の山里小学校)勅許を得て盛大に鎮座祭施工。
格 式
当初祭典及維持は官費により運営され、例祭には知弔が参向した。
明治5年、官祭停止となり、更に7年縣社。
日吉神社と合併明治7年8月台風により大被害を受け、その後再建の力及ばず春秋の祭りを形ばかり行なう状態となった。明治15年、皇大神宮の氏子は元日、日吉神社であったため氏子の強い希望により合同大祭を行ない、翌16年12月合併許可を得、17年正月8日遷御式を行ない、これより縣社浦上皇大神宮と稱するに至った。
御祭神
天照大御神/豊受比賣神/大山昨神/大物主人/伊邪那岐神
高皇産霊神/御代御代皇御孫神/外五神
参道新設大正13年(1924)旧道が廃止され、下に県道開設。参道がなくなったため、土地を購入し、参道を新設。(現在の一本柱鳥居通りは、戦後市道となる)
当時の氏子の
範囲及祭日
合祀後の氏子の範囲は、南船蔵町(現八千代町付近)より北は城山町より本原町に至る約2,500戸にのぼった。お祭りは毎月1日と17日に小祭を行ない、御神酒を賜わり17日には講演を行なった。毎年4月18日と10月18日に大祭を執行し、秋季大祭には縣より奉幣使を参向された。又、大祭には奉納踊り、大人相撲、子どもみこし等が行われ夜店等で賑った。
戦後の沿革
昭和20年08月…原爆にて總て倒壊、参道上の二の鳥居は一本柱になる。直ちに御神殿再建。
昭和25年………正殿再建。
昭和29年………氏子總代会会則及大祭担当町を決議。
昭和35年………拜殿御礼所再建。
昭和36年………手水舎再建。
昭和44年………舞台、収納庫、堀新設。
昭和51年………フェンス設置。
昭和53年04月…旧市公民館後に武道場山王振武館を開設。
その他…………補修整備に務め、又社務所も52年新築され現在に至る。
大祭日行事祭典、奉納踊り、その他
宝物及び記念物数度の災害により山王權現記浦上皇大神宮図祭神由緒記等の宝物焼失す。長崎市で唯一の原爆による現状を残している一本柱鳥居及び樹齢5~600年と伝えられる2本の大クスノキ等。
山王神社からのお知らせ
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